【知りたい】GEZANの音楽と共にこの混乱と矛盾の時代を突き抜けろ

外出自粛の要請がされ、そうでなくても季節外れの雪が降って外に出るなんて気にもなれない3月29日の東京で、何をしていたかといえば僕は1日ずっと音楽を聴いていた。いろいろ聴いたが、そのなかで聴いたGEZANの最新アルバム『狂(KLUE)』は本当にヤバかった。

《首をくくってる 五輪の輪っかで/やさしくない哺乳類の遊園地》(“replicant”)

《想像してよ東京/この街に価値はないよ/命に用があるの》(“東京”)

バンドの中心人物マヒトゥ・ザ・ピーポー(Vo・G)がこれを書いた理由と東京の現状に関係はないが関連はある。「自粛」を「要請」するという矛盾を呼び起こしたものは何なのか。なぜ想定外のミクロの敵を前に都市とそこに生きる人はこんなにも混乱をきたしてしまうのか。GEZANの音楽は、その疑問を射抜いているように思えて戦慄した。

2009年に大阪で結成されたGEZANは、当初からシーンや界隈、事務所やレーベル、彼らはどこにも属すことなく、自分たちの考えと自分たちのやり方に基づいて活動を展開してきた。アルバムを全国リリースしても、「フジロック」のROOKIE A GO-GOに出演して注目を集めても、拠点を東京に移しても、彼らのスタンスは一切変わることはなかった。しかしその変わらないスタンスが、今や完全に時代とリンクし、その後の世界を予見している。ここ2作のアルバム『Silence Will Speak』と『狂(KLUE)』を聴くとそれを痛感する。時代が求めているといってもいい。

どす黒いベースラインとノイズとディスコード。その向こうから、時に語りのような、時に叫びのような歌が聞こえてくる。ハードコア・パンクと呼ぶにはメロウで、アバンギャルドと呼ぶには歌心がある、まるで聴いたことのない音楽。僕が初めて彼らの作品に触れたときに感じたのは、そんな感覚だった。その感じは、今に至るも変わっていない。『狂(KLUE)』の冒頭に置かれた“狂”でマヒトはこう書く。《簡潔に言えば、この不協和音は毒として血をめぐり骨を溶かし、借り物の倫理を破壊する。/シティポップが象徴してたポカポカした幻想にいまだに酔っていたい君にはオススメできない。今ならまだ間に合う。停止ボタンを押し、この声を拒絶せよ。》。

GEZANは一貫して「不協和音」であり「毒」であり続ける。お仕着せのジャンルやカテゴリーを拒否し、剥き身の言葉と音で訴えかける。まさに“狂”で宣言されているとおりだ。しかし、強烈な「毒」であると同時に、彼らの音楽は「愛」でもある。政治、経済、地球環境から音楽業界まで、世界の薄皮を1枚めくった奥にある違和感と混乱と不穏を、彼らはこれでもかと暴き立てる。その姿は一見ゲリラかテロリストのようだし、実際彼らのライブは凄絶なカオスのようだ。だが、彼らの根本には人に対する愛と信頼がある。その愛と信頼が、マヒトの歌から優しい響きとなってにじみ出ている。どんなにディスコードとノイズにまみれていても、彼らの音楽は「歌」であること、つまりコミュニケーションであることを諦めないのだ。

それが、僕がこのバンドを聴き続ける理由であり、この時代にこのバンドが必要である理由だ。

彼らの主宰するレーベル「十三月」は、毎年「全感覚祭」というイベントを開催している。東京初開催となった昨年は開催予定日に台風が直撃して、急遽翌日深夜に渋谷のライブハウスを横断して実施されて話題になった。この「全感覚祭」の特徴は、入場料も会場内のフードもすべてフリー、運営資金は募金や投げ銭でまかなっているというところだ。とんでもない性善説。人に対する絶対の信頼がなければそんなことはできない。そしてそれが成功しているという事実はとても重要なことだと思う。

GEZANの音楽は、一面的なモノの見方や通り一遍の定義やステレオタイプこそもっとも唾棄すべきものであり、それを乗り越えた先でどれだけ思考できるかということをリスナーに要求する。それはつまり「てめえが自分で考えろ」と答えを一人ひとりに任せるということでもある。《孤独は売らないで 仮に売っても買い戻して。》(“Soul Material”)。どうにも言語化や定義ができないGEZANの音楽は、最終的にリスナー一人ひとりのものになる。形ばかりのシェアやつながりを寸断して、ひとりの人間として向き合うはめになる。それがGEZANを聴くということだ。一体感や連帯感とはまったく別の形の安心と高揚を、僕は彼らの音楽から受け取っているのだ。全員に必要な音楽だとは思わない。だが、きっと彼らとの出会いを待っている人は、まだまだたくさんいるはずだと思う。(小川智宏)

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