ボブ・ディランはなぜ神様と呼ばれるのか

ボブ・ディランはなぜ神様と呼ばれるのか

ロック・ミュージックの歴史には、綺羅星のごときスターたちが無数に瞬いている。それこそ名前を挙げていけばキリがないほどのアーティストがその星図には刻まれている。けれど、そこにひとつ、ボブ・ディランという名前を書き込んでみると、それまで輝いていた星たちは、ディランを基点にして、みんな「こちら側」にきてしまう。ジョン・レノンだって、デヴィッド・ボウイだって、ディランからみれば、みんな「こちら側」だ。われわれ聴き手と同じ側に見えるくらい、それほどディランという存在は圧倒的で孤高なのだ。

それはどうしてかといえば、簡単なことだ。ディランが最初だからである。いや、もちろん、ディランの前にフォーク・ソングは歌い継がれていたし、ロックンロールを歌ったシンガーもいたし、永遠のリフを発明したミュージシャンだっていた。エルヴィスはもちろん、ジョン・レノンだってボブ・ディランより年上だ。それでも、ディランは最初なのである。なにが最初かと言えば、「きっとこのような音楽は世界中で聴かれるようになり、それはある種の世代を象徴するものになり、常に時代性を映し出しながら、メッセージを獲得して、発展していくに違いない」という確信を誰よりもいち早く感知したことである。エルヴィスはロック・スターではあったけれど、時代を超克することはできなかった。ジョン・レノンは世界中で聴かれるようになった当初、ビートルズなんて2,3年も経てば世間から忘れ去られるに違いないと思っていた。けれど、ディランは違った。ローカル・ソングに過ぎなかったフォークやカントリー、ブルーズが、いつかラジオにのり、ユース・カルチャーの礎となり、常に時代の中で変遷を遂げながら、メッセージそのものとなっていくということを確信したのである。そんな、ロックがロックであることの要件をあらかじめ確信していたディランは、つまり、はじめからそこに歴史があることを、言い換えれば未来があることを予感していたのだ。

だから、今夜目の前で繰り広げられていた音楽は、歴史そのものだった。ひとつひとつのフレーズ、音の鳴り、リフ、フック、歌詞からあふれ出る慣用句や警句、そして物語。その音を前にして、それが、いったいどれだけの時間を積み重ねてきた上で鳴らされているものなのか、そして、それを聴いてきた者たちがその後どれだけの未来を生み出してきた音楽だったかということにあらためて畏怖したのである。

ディランは、そもそもから、目の前に横たわっていた音楽が歴史であることを直感したのだ。だから、ディランだけがロック・ミュージックの未来を予感できたのである。その意味において、ディランだけが神様なのである。

そして、今年69歳になるディランは今夜も、最後に演奏した「風に吹かれて」を一瞬ではそれとわからぬくらい粉々に砕きまくったバージョンとして提出することで、ロック・ミュージックの歴史にあらたな1ページを書き加えようとしていたのだ。ネヴァーエンディング・ツアーとは、そういうことなのである。
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