キース・リチャーズ、ガスじいさんの思い出や開放弦奏法の開眼当時について振り返る

キース・リチャーズ、ガスじいさんの思い出や開放弦奏法の開眼当時について振り返る

10月22日にニューヨークはハーレムのアポロ・シアターでXペンシヴ・ワイノーズを率いてのソロ・ライヴを行ったキース・リチャーズだが、祖父のガス・デュプリーから授かったギターの事始めなどについて語っている。

キースは、音楽サイトのノイジーが名ギタリストの極意に迫る『ギター・ムーヴス』という連載シリーズの取材を受けて、インタヴュアーを務め、シャヴェズやビリー・コーガンが率いたズワンなどで活躍したことで知られるマット・スウィーニーの質問に応えることになった。

取材の冒頭は、ギターの弾き方の極意はどうあるべきかという話題で始まり、キースはギターの演奏を男女の話にたとえて「どんな物語にもその語り手は二人いるんだよ」と語っていて、ある音をギターの弦で鳴らしたとして、フレットを押さえた右手の指と弦を弾いた右手の指が愛し合っていないとだめなんだと説明し、どんなギタリストもそのことを習得するためにはまずアコースティック・ギターから始めなければならないと語っている。

特にアコースティックという基礎は重要だとキースは強調していて「ギター・プレーヤーになりたかったら基礎がなってなきゃだめなわけで、それはなにやったって同じことだよ。宇宙飛行士だって宇宙で育成されるわけじゃなくて、まずロケットを誰かが作らなきゃだめなんだから」と説明している。

そもそもキースにギターの手ほどきをしたのは誰だったのか、とマットが問うと、キースは次のように語っている。

キース「俺? 俺のギター・レッスンは祖父から受けたもので、祖父がギターを持ってたんだよ。ミュージシャンでヴァイオリン弾きだったんだけどね。それとサックスも吹いてたんだ。オールラウンドに楽器ができたんだけど、特に有名だったりしたわけじゃなくて、ただ、自分のやってる音楽はすごく愛してたんだね」

マット「おじいさんはプロだったんですか」

キース「そうだよ」

マット「それだけで生計を立ててた?」

キース「折に触れてね(笑)」

マット「(笑)なるほど」

キース「だから、いつも祖父の身の回りには楽器が転がってたんだよ。で、ギターが壁にかけてあって、俺がその壁にかかってるギターをいつも見つめてるもんだから、もう何年もからかわれたんだよ。『おまえ、あれに背が届くようになったら、そうしたらあれで遊ばせてやるからな』ってね。それで俺は考えたんだんよ。椅子の上に分厚い本をいくつも重ねてその上によじ登ってみせたんだ。それで部屋に戻って、俺はギターを抱えてたんだ。すると、祖父は『よし、じゃあ、やるべきなのは、"マラゲーニャ"っていう小品だ。これはスペインの曲なんだよ(実際にはキューバの作曲家、エルネスト・レクオーナの作品)』って言って、冒頭の部分を鼻歌で歌って、そのまま弾いてみせてくれたんだ(ギターを手に取って弾いてみせる)。と、このパートだけやってみせてくれて、見せてくれたのはそれだけだったんだ。コードなんか教えてもらってないから。音符だけだよ。指を使ってね。ピックとかはその後の話だよ。俺はもうただ、『えっ、おじいちゃんってスペイン人だったの?』って驚いてたよね(笑)」

その後は、どうやって実際に自分のギターを手に入れるかという問題が至上命題になった、とキースは振り返っていて、ありとあらゆるお小遣い稼ぎに励んで家族に猛烈にアピールを続けたところ、13歳の時に根負けした母親がついにアコースティックのガット・ギターを買ってくれたのだという。
マットがコードでの演奏はいつどうやって憶えたのか?と訊くと、キースは「EマイナーとかAマイナーとかは"マラゲーニャ"の演奏から自然と身に着いたんだと思う」と語り、ほかはレコードで聴いたものを自分なりに何度も何度も試していくうちに自然と和音として習得していったものだと説明している。
「年頃的には一刻でも早く初体験を済ませたい頃だったんだけど、ギターばっかりだったんだよね」と相当に入れ込んでいたことをさらに振り返っている。

話題が変わって、現時点で一緒に作曲する友人はいるのか?と訊かれると次のように答えている。

「いるよ、スティーヴ・ジョーダンだね。(ソロ新作『クロスアイド・ハート』は)もちろん、ジョーダン=リチャーズというコラボレーションとして書かれてるんだよ、最初からね」

ほかにはソングライター仲間はいないのか?という問いに対して、次のようにザ・ローリング・ストーンズの現状について答えている。

「ミック・ジャガーというやつがいて、俺はすごく一緒にやりたがってるんだけど、なかなかやらせてくれないんだよね。基本的に俺はミックが声をかけてくるまで待つことにしてるから、それで時間もやたらかかるんだけど(笑)。ただ、ミックとだと、いろいろ焦らされるんだよ。声をかけてきても『えーと、なんかさ、そろそろ一緒になんかやってもいい頃合いだよなあと思ってさ……追ってまた連絡するよ』とかそんな感じでね(笑)……けどさ、今んところ順調に来てるし、準備も進めてるところだぜ(笑)」

また、マットは60年代までストーンズのアメリカ・ツアーで頻繁に同行していたアイク・ターナーについても訊いている。アイクは妻だったティナ・ターナーとアイク・アンド・ティナ・ターナーとして活躍していたが、アイクがティナにDVを働いていたことでも有名で、その後1976年にアイクがコカイン中毒に陥るとティナはアイクのもとから逃亡し、夫婦関係とデュオも消滅することになった。

「アイクはもうすごいやつだったよね、バンド・リーダーとしても(力拳を作って)極悪なタイプでさ。俺たちの2回目か3回目のアメリカのツアーで、アイク・アンド・ティナ・ターナーと一緒にアメリカを回ったんだよ。で、劇場くらいの会場を回ってて、どこへ行っても、楽屋裏は廊下があって楽屋が並ぶ感じになってるんだけど、その中のひとつで殴ったりはたいたりと、すげえ物音が聞こえてくる部屋があるんだよ。するとその部屋から、ぴしっと完璧に着飾ったティナが出て来て、アイクは部屋の片隅で完全にやられててね(笑)。アイクは確かに血も涙もない暴力野郎だったけど、手を出した相手が間違ってたっていうのがティナだったんだよね」

「それとアイクのことで憶えてるのは、アイクが"ホンキー・トンク・ウィメン"を聴きつけて、5本弦の開放弦チューニングについても初めてその音を聴いたわけだよ(69年のアメリカ・ツアーでも同行していた)。もともと俺がライ・クーダーからパクった奏法だったんだけど。そうしたら、俺の楽屋に『あのー、アイク・ターナーさんが会いたがってるんですけど』って連絡が入って、『お安い御用っすよ』って挨拶に行ったら、ふんぞり返って『おいっ、あの5本弦とやらを今やってみせろ!』っていう調子でさ。『どういう仕組みなんだ!』っていうから、一番低い弦を取っちゃって、ほかをGでチューニングしたんだよ(ここでマットがアコースティック・ギターを手渡すとキースが一番低い弦を外してチューニングを始め、チューニングを終えると、ブルースやキース節的なリフを披露する)」

このチューニングを知ってその後のすべてが閃いたのか?とさらにマットが訊くと、キースは次のように語っている。

「いや、だから当時は、このまま6弦の普通のギターをやっててもこれまでやってきたことの繰り返しばかりになりそうで、5弦の開放弦チューニングを知ったら、まったく新しい楽器の弾き方を習得してるような感じになったんだよ。これだとさ……弦は5本あって、音は3つ……あと必要なのは手が2本と馬鹿な奴ひとつだと(笑)」

このチューニングを発見した時の心境について、キースはこう振り返る。
「うん、これでいけるなって。それに弦が1本分安上がりだよねって」

マットによるキース・インタヴューはこちらから。
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